交通

中通島青方バスターミナルから西肥バス津和崎行きで約1時間15分(途中立串でバス乗り換えの場合がある)江袋下車徒歩3分

住所

建物

〒857-4602 長崎県南松浦郡新魚目町曽根郷字浜口195-2 木造平屋  195平方メートル

竣工

設計・施工

明治15年(1882) 設計 不詳 施工者 不詳

見学

公開(巡回教会) 主任教会は仲知教会(0959)55-8037

 

 

 

 

 

 

 

 中通島の中心部から北へ向かって細長くのびるその先端の津和崎まであと7km程に近づいたところ、西側に広がる東シナ海に見とれていると左に下る分かれ道を見落としてしまう様な急傾斜面の中腹に、海に向かって立つ江袋教会堂がある。教会堂の下に開けた江袋の集落は、寛政年間に彼杵半島の神ノ浦村大字中尾の七右衛門夫婦が移住してきたのを始めとするキリシタン部落である。ここから更に1km余り北方の仲知部落も同時期に黒崎村から移住したドミンゴ島本与治右衛門夫婦によって開かれたものと言われている。その後移住してきた者を加えキリシタンの子孫は次第に増加してゆき、明治に入ると受洗者も増えるなかで次第にキリシタン部落が形成されていったようである(★1)。

 また、ここ江袋は五島出身の最初の神父となった島田喜蔵神父(1856〜1948)の生誕地でもあり、島田神父が叙階後明治20年に五島で初ミサを行ったのもこの江袋教会堂であった。

 江袋は自然立地に守られてか仲知部落にあったような大きな迫害を受けることなく明治6年(1873)2月24日の高札撤去を迎えたと言う。しかし、島田喜蔵神父の口述を記録をした中田秀和氏の著書(★2)によれば、慶応3年(1867)喜蔵少年の受洗後神棚を降ろした家族は、役人の強制を受けた部落民に迷惑は掛けられないとして、自ら一家離散を決意したことが記されている。ここでも多くの潜伏キリシタン達は神棚をまつり、その日の来るのを待つことで迫害を防いでいたのが現実であろう。

 しかし高札撤去後の明治6年6月、無法にも仏教徒、神官を先頭に40名程の曽根郷民が江袋に押し寄せ、信仰を明かした信徒達に乱暴狼籍をはたらいたうえ、家財、衣類などを略奪する事件が発生している(★3)。このような苦難の中から漸く立ち直り、明治15年(1882)又は16年(★4)に信徒の総力を挙げて建設されたのが現存する江袋教会堂であり、五島に於ける現存現役教会堂としては最古のものである。

 教会堂建物は木造単層屋根構成、変形寄棟造り、桟瓦葺きで、正面全幅にわたって下屋を付して玄関部を構成し、また両側面後方にも下屋を付し香部屋の一部として使われている。変形寄棟屋根を用いた教会堂はド・ロ神父の設計により明治15年に完成した創建特出津教会堂の屋根に見られるが珍しい形態である。

 正面の玄関部は板壁で囲われ、入口は正面の引き分け板戸1ケ所のみで、その左右に引き違いガラス窓があるが後補であることは明らかであり、当初は腰壁のみで三方に吹放たれていたようである。下屋の上、正面妻側には尖頭アーチ形の小窓が等間隔に4個並んでおり、中央には十字架が張り付けられているが、堂内から見るとこの十字架の裏側にやや大型の尖頭アーチ窓が存在し、正面からは板で塞がれていることがわかる。当初か或いはある時期に5個の尖頭アーチ窓があったものと思われる。

 両側面には会堂部に各3個、香部屋部にやや小さめな各2個の上部尖頭アーチ形固定・下部面外開き鎧戸付き園内開きガラス窓が設けられている。外壁面は全て縦板張りで、中間で縦板の幅が異なるなど荒さが目立つが、当教会堂を調査した川上秀人氏は外壁面の当初の形態について五輪教会堂を参考に、腰下部分は縦板張りで腰上の部分は漆喰仕上げではなかったがと推定している。なお屋根棟の両端部で通常鬼瓦が置かれる所に漆喰で十字架を付けた瓦が乗せられているのも古い形態である。

 教会堂内部平面は三廊式、内陣部が幾分外側へ張り出した形となっているが、全体としてはほぼ矩形であり、初期天主堂の特徴をよく表している,会堂入口は玄関部から通じる引き分け板戸1ケ所のみで、床面は板張り、入ロから祭壇方向中心軸に寄木張りがなされている。主祭壇、脇祭壇は共に長方形平面で、その前方内陣部床面にも寄木張りがある。

 主祭壇の後部背面には左右2面の上部尖頭アーチ形縦長窓があり、その上部中央に丸窓を配する。両脇祭壇横から祭壇裏を利用して左右香部屋を設けているが、香部屋入口に扉を設けることはない。なお会堂入口上部に主廊幅で楽廊を設けている。

 主廊幅(N)は15尺、側廊幅(I)は9尺、列柱間隔は9.6尺(★5)で、N/ I=1.67となる。内部列柱は円柱で台座は無いが、柱頭部には頭貫が水平に走っている。主廊側では頭貫の上端、側廊側では頭貫の下端に沿って簡単な刳り型をもつ柱頭飾りと装飾帯が付されている。

 主廊部、側廊部とも天井は板張り8分割リブ・ヴォールト天井で、リブの起点は主廊側は頭貫の上、側廊側では頭貫の下から立ち上げている。また側廊部の壁側のリブの起点は列柱側のそれより更に低くしている。内部立面構成はいわゆる第沍Qで、単層屋根の制約から主廊部と側廊部との天井高に余り大きな差を設けられない中で、側廊部の中心軸を主廊側に偏らせる苦心の跡がうかがえる。なお川上秀人氏の調査(★6)によれば、列柱及び床束の位置では自然石の独立基礎が置かれており、また屋根架構には和小屋組が採用されている。

 この教会堂を建築した工人は不明である。恐らく無名の地方の大工が、神父達の指導を受けて、初めての洋風建築を在来の工法で建築した最初期のものであろう。

 

(★1)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年7月)
(★2)中田秀和「隠れキリシタンから司祭に(トマス島田喜蔵神父の生涯)」(中央出版社、昭和56年8月)
(★3)上掲(★1)「長崎県の天主堂と九州・山口の西洋館」
(★4)長崎県教育委員会「長崎県建造物復元記録図報告書(洋館・教会堂)」(昭和63年3月)によれば、宗教法人台帳登載申請書・由緒沿革の項に明治15年6月設立と書かれており、調査を担当した川上秀人氏は建築的にみても台帳記載の設立年代は建築時期を指すものとしている。一方、中田秀和氏は上掲(★2)「隠れキリシタンから司祭に(トマス島田喜蔵神父の生涯)」の中で明治16年にパリ外国宣教会のドラン神父によって建てられたとしている。
(★5)川上秀人「江袋教会の建築について」(建築学会大会学術講演梗概集・東北、昭和57年10月)
(★6)前掲(★4)「長崎県建造物復元記録図報告書(洋館・教会堂)」

 

 

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