交通

福江バスターミナルから五島バス戸岐行きで15分奥浦波止下車、奥浦港から海上タクシーにて約20分で五輪漁港

住所

建物

〒853-2172 五島市蕨町五輪 木造平屋 213平方メートル

竣工

設計・施工

明治14年(1881)頃
【昭和6年福江市田ノ浦町所在の旧浜脇教会堂を解体移築】

設計 不詳 施工者 不詳

見学

隣地に五輸教会(巡回教会)がある。主任教会は浜脇教会(0959)77-2061

 

 

 この聖堂は久賀島の東部、奈留瀬戸に面した漁港の船だまりに続く平地に、新聖堂とやや距離を置きながら対をなすようにひっそりと建っている。五輪教会に所属する信徒は五輪地区及び蕨(わらび)小島に居住する住民すべてであるが、過疎の波に洗われ、かつて50余所帯を数えたものが今は十指にも満たない所帯となっている(★1)。五輪教会は浜脇教会の巡回教会となっているが、浜脇から五輪まで陸路を行くと山道を含む6〜7kmの道をたどることとなり容易ではない。旅行者がこの聖堂を訪れるとすれば、奥浦或いは福江港から五輪まで海上タクシーを利用するのが推奨ルートと言うことになるか。もっともこの辺りでは歴史的にも主要な交通手段は海であったことを考えると、このアプローチは決して特異なものではない。

 当教会堂建物は、昭和5年頃浜脇教会堂を改築するに際して、それまで使用していた建物を解体して五輪の地に移築したものである。従ってこの建物は浜脇に於いて明治14年(1881)4月20日に創設(法人台帳)された教会の建物で、移築に際して大きな改変がされていないことから、創建時の形をよく残している貴重な建物と言える。一方、五輪教会の設立は昭和6年(1931)3月で、現在の浜脇教会堂建物の昭和6年5月竣工と符合する。

 このことから建築年代で言えば、当教会堂建物は長崎県下に所在する木造教会堂建物としては恐らく最古のものである。長崎県教育委員会が昭和50年に文化財調査の一環として、県下力トリック教会の悉皆調査(★2)を行った頃は、明治13年建設の旧大明寺、明治14年建設の旧五輪、明治15年建設の立谷、同じく江袋の各教会堂建物が存在していたが、その後昭和50年に旧大明寺は愛知県明治村へ移築するため解体され、立谷はその後老朽化が進んで廃堂と化し、平成3年に至り遂に台風により完全倒壊してしまった。

 この旧五輪教会堂は木造単層屋根構成の建物で、正面には本体会堂部より一段低い切妻屋根の玄関部が突出している。この玄関部と会堂部との取り付け部分に不自然さが見られるため、現存する玄関部は当初からのものではなく移築後の改変と思われるが、形態は違っても、この入口部分は何らかの形で会堂本体から突出した形で存在していたものであろう。

 屋根は桟瓦葺き、野地の部分に細い丸竹を使用しているのは珍しい。建物の背面には香部屋が内陣部を取り囲んで存在し、本体に下屋状に付設している。香部屋については当初からこの様な平面であったかどうかについて、復元調査にあたった川上秀人氏は主祭壇部後壁裏面の柱の損傷等から疑問を提起している(★3)。例えば旧大明寺教会堂のそれのように香部屋が内陣部を取り囲んでいなかった可能性もあるようである。
会堂部両側面の窓は上部尖頭アーチ形はめ殺し、下部両引き込みガラス窓で鎧戸を有する。外壁面の仕上げは正面及び香部屋の周辺は下見板張り、会堂部の左右側面は下部下見板張り、上部漆喰仕上げであり、一方会堂内部では腰下部は縦板張り、腰上は漆喰壁となっている。会堂平面は三廊式で、正面の玄関部からは各廊に対応する両内開き或いは片内開きの板戸を有し、各廊の正面には多角形平面の主祭壇及び脇祭壇を有する。会堂床は縦板張りで、床面の中央部には寄せ木張りの痕跡を残している。中央及び左右脇祭壇の後背は何れも板張りリブ・ヴォールト形式で立ち上げている。

 内部列柱は木製八角柱で、台座、柱頭をもたない簡素なものである。主廊幅(N)は12.0尺、側廊幅(I)は8.0尺、列柱間隔は8.O尺で(★4)、N/I=1.5となり、この値は旧大明寺の1.3に次いで小さい値である。

 天井は主廊部、側廊部共に板張り8分割リブ・ヴォールト天井で構成され、列柱上部を結ぶ頭貫上端を主廊部の横断リブ、交差リブ、壁付リブの起点としている。この露出した頭貫は江袋、立谷など同時代初期の木造教会堂にのみ存在するものであるが、ここ五輪では列柱間頭貫の下部に緩やかな尖頭アーチを設けて、主廊部と側廊部との間に連続性を持たせる工夫がなされている。また側廊部の天井を構成するリブの起点を主廊部のそれより低い位置にとることにより、それぞれのリブの頂点の高低差を効果的に確保している。

 内部立面構成はいわゆる第1群で、列柱頂部に露出した貫を有する原始的な形態であるが、他の江袋、立谷のそれに比して上述の様な各種の工夫がなされており、優れた内部空間作りに成功している。なお屋根架構は和小屋組である。

 当聖堂は昭和59年12月に解体の危機に晒されたが、関係者の尽力により解体を免れ、昭和60年2月14日に長崎県指定有形文化財として指定され、併せて信者の祈りの場として昭和60年6月23日に新聖堂が建設され献堂されたところであるが、新たに平成11年5月に国の重要文化財として指定され保存が図られることになった。

 なお、最近五島観光歴史資料館を訪れて知ったことであるが、旧五輪教会堂の展示説明書きの中に次の一文があった。「建築請負師などは公式文書にはないが、久賀島出身の朝日新聞本社役員内海紀雄氏の研究によると、旧久賀村田ノ浦出身の大工平山亀吉である。」
最近の教会発行記念誌等において、先人の関わった数々の秘話等を記録することが行われている。一方、地方史をはじめとする地方での研究が進み、情報収集や記録発掘が進むことにより、これまで不明としてきたことが判明してくる可能性も充分残されている。五島観光歴史資料館での出来事は大変力づけられたことでもあるので、未確認情報ではあるがここに記しておく。

 

(★1) 力トリック長崎大司教区司牧企画室「長崎の教会」(聖母の騎士社、1989年3月)
(★2) 長崎県教育委員会「長崎県の力トリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)
(★3) 長崎県教育委員会「長崎県建造物復元記録図報告書(洋館・教会堂)」(昭和63年3月)による。現存する五輪教会堂は文化財指定時に復元修理が行われており、その指導に当たったのが川上秀人氏であり、本稿の記述は主としてこの報告書による。
(★4) 川上秀人「教会堂建築の研究(2)五輪教会の建築について」(建築学会大会学術講演梗概集(中国))昭和52年10月)

 

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