交通

福江バスターミナルから五島バス戸岐行きで15分奥浦波止下車、奥浦港から木口汽船に乗船約25分で田ノ浦港下船、港からは徒歩約15分

住所

建物

〒953一2173 五島市田ノ浦町263 鉄筋コンクリート造平屋 275平方メートル

竣工

設計・施工

昭和6年(1931) 設計 不詳 施工者 不詳

見学

見学 公開 (0959)77-2261

 

 

 

 

 

 五島に天主堂を訪ね歩く者は、五島列島におけるキリシタン農民への迫害の頂点とも言うべき久賀島での出来事について知ることから始めなければならない。そして、出来れば浜脇教会堂の次に「牢屋の窄(さく)殉教地(★1)」を訪ねてほしい。

 大浦天主堂に於ける信徒発見の出来事があってから2年、五島各地の信徒が大浦を訪れる中で受洗者も相次ぐようになり、また大浦からもクーザン神父が身を挺して五島を訪れるなど、大浦天主堂と各地の信徒情報は目覚めつつあった信者農民の間に広く伝搬していった。未来の信仰に光明を得た彼等は遂に隠れの域を脱して、自ら庄屋、代官を訪ねて本心をうち明ける迄になっていた。しかしこれら農民の思いとは逆に、明治政府は皇道興隆の主旨に従ってキリシタン禁制をますます強化していった。

 明治元年(1868)10月8日、久賀島の代官日高藤一は全島のキリシタン約200人を逮捕して代官屋敷へ引き出し、そのうち主役と見られる22人を福江に送りつけた。翌日から仮牢に収容された信者に対する火責め、水責め、算木責め等ありとあらゆる拷問が老若男女を問わず行われ、仮死状態となる者が続出した。福江に送られた者も庄屋宅において青竹で打たれるなど血みどろの拷問が10日余り続き、限界状態の中で一時棄教と棄教取り消しを繰り返して10月20日に久賀島の牢へ移されてきた。牢はわずか6坪の所に200人が押し込まれ、体がせり上がって足が地に着かない状況で、3日もすると高齢者や子供は次々に倒れる始末であった。さすがに役人も牢を二分して交替で土間に座らせるようにしたが、着の身着のままで排便施設もないままに不潔さは言語に絶する状態が続いた。食事は朝夕二回サツマイモ一切れが与えられるのみで、飢えと寒さは極限に達し、頭髪は抜け、体力も尽きて倒れる者が続出していった。この様な状態が8ヶ月続き、牢内の死者は39人と、実に入牢者の2割が死亡していったのである。牢内で死んでも死骸を葬る事さえ許されず、五昼夜もそのまま放置され、大勢に踏み潰されて平らになる状況さえあった。およそ8ヶ月で殆どの者が出されたが、全員が放免されたのは2年後のことであり、帰宅後間もなく3人が死亡し、犠牲者は42人となった(★2)。

 苦難はこれのみでは終わらなかった。生き残った信者農民が帰宅してみると、入牢中に家財、家具、食料は勿論、農具、家畜に至るまでことごとく郷民に略奪され、無一文からの再出発となった。どの家を見ても壁が無く、畳みも無い、ただ雨露をしのぐあばら屋があり、床は竹の素編みだけで食事の時や寝る時はそこにわらを敷いていたと言う(★3)。これが生き残った人達の、信仰を公に表さないことを条件に放免された直後の生活であった。

 親子、縁者を失う悲劇の時から十余年、明治14年(1881)4月20日に浜脇教会は久賀島の最初の教会として設立された。その時に建築された当初の教会堂は、現在の教会堂を建設する際に同島内の五輪の地に移築され、今も五輪教会旧聖堂として現存する。

 現在の教会堂は昭和4年(1929)、清水佐太郎神父在任中に二万七千五百円を投じて着工したもので、昭和6年(1931)5月3日竣工した。当時の早坂久之助長崎司教が震災の経験を生かして建設を推進した鉄筋コンクリート造教会堂6棟のうちの1棟である。

 田ノ浦瀬戸を見下ろす高台に建つ浜脇教会堂は重層屋根構成瓦葺きで、正面の鐘塔とその上部の八角形の尖塔が極めて印象的な建物である。鐘塔の下部は玄関部として利用され、その上の塔屋は主廊幅を確保したまま重層屋根頂部近くまで立ち上げ、その上部に四周幅をやや狭めながら三方に三連アーチを組み込んだ鐘塔を置き、更に八角塔を立ち上げて鋭い八角錐の屋根へと続く。吹き放ちとなった玄関部入口正面のアーチの上方には丸窓がとられているが、壁体部分にはあまり装飾的な細工を施すことなく、柱形を突出させるなどして重量感を得ている。外観的にはこの塔屋一本で垂直性強調の意図は充分達成されている。

 会堂本体の上層左右側面には緩い尖頭窓が各6面配され、下層左右側面には上部を緩い尖頭アーチ形はめ殺しとした引き違い窓が各4面置かれ、会堂のほぼ中間辺りに左右脇出入口を張り出して設けている。

 建物内部平面は三廊式、玄関上部から1スパン目まで二階を張り出して楽廊を設けるほか、主廊部及び側廊部各正面には多角形平面の主祭壇及び脇祭壇を設けている。主廊幅(N)は15.8尺、側廊幅(I)は8.5尺、列柱間隔は11.2尺(★4)で、N/I=1.86となる。この値は昭和初期に集中的に建設された鉄筋コンクリート造教会堂の中では一番小さいもので、大正初期に建設された煉瓦造教会堂のそれに近いものである。

 天井は8分割リブ・ヴォールト天井塗り仕上げ、すべてのアーチは尖頭形であるが、尖頭の鋭さは無く、円形アーチに近い。列柱は円柱で八角形の台上に円盤を乗せる形の台座と、比較的大きめのコリント式オーダーを刻する柱頭を持つ。

 内部立面構成はいわゆる第?群で、第二柱頭を結ぶ装飾帯或いは疑似トリフォリウムを無理に造り出すことをせず、柱頭の着色や柱の表面仕上げを変えることにより単調となる主廊部壁面に変化を持たせている。会堂部、内陣部共に床面は縦板張りで全体として簡素に仕上がっている。

 私が最初に当教会堂を訪れた頃は外壁が黒ずんで古色蒼然たる感を呈していたが、これは戦時中異教徒の要求を防ぎきれず、空襲の標的となるのを避けるために白亜の壁を黒く塗りつぶした為と言う。最近に至り外壁は白色に塗り直され、濃い緑の背景にも調和したメルヘンチックな建物に変身している。

 

(★1)島内の久賀町大開、松ヶ浦の地に、この牢があった場所が「牢屋の窄殉教地」として保存され、隣地には殉教記念聖堂が建てられている。この聖堂は浜脇教会の巡回教会とされている。
(★2)木場田直「キリシタン農民の生活」(葦書房、1985年12月)等による。
(★3)中田秀和「隠れキリシタンから司祭に<トマス島田喜蔵神父の生涯>」(中央出版社、昭和56年8月)
(★4)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)付図より推定。

 

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