黒崎部落は隣の出津部落と共に旧外海村の切支丹部落として知られている。常任の神父が派遣されたのは明治12年(1879)で、ド・ロ神父(1840〜1914)が黒崎と出津を兼任していた。ド・ロ神父は明治15年(1882)に創建出津教会堂を作り布教の拠点とするほか、明治16年には出津救助院を、明治18年には出津鰯網工場(現在のド・ロ神父記念館)を、明治肘年には出津教会堂の1期増築を、そして明治26年(1993)には大野教会堂を建設するなど布教と貧民救済に精力的に取り組んだ。
出津救助院は貧困者を救うため修道女や娘達に織物・染め物からマカロニ・ソーメン等の製造、パン焼き技術などを教え、その為の機器を神父が自費で購入するなどして地域住民の生活向上を図ると共に、祈りと労働の精神を実地に修得する場としていた。また、出津鰯網工場は職を持ち得ない村人達に職を与え、貧困と悲惨な生活からの解放を図るものであった。
黒崎には明治3年(1870)には仮聖堂ができていたが、明治20年に出津教会から黒崎小教区として独立する頃から黒崎にも教会をとの機運が高まり、信者達は貧困と闘いながらも芋やカンコロを売って資金の積み立てを始めていた。そして明治30年(1897)には現在地に新しい教会堂を建設するための敷地の造成にかかった。教会堂の設計はド・ロ神父がされたと伝えられており、事実その長大な会堂平面は1期増築後の出津教会堂のそれを想起させるものがある。
明治32年には造成工事も終わり、建築にかかるばかりになっていたが、その後何故かしばらく教会堂建設の計画は進展しなかった。大正年間に入って建設運動が再燃し、建築着工時には当時250戸程の信徒達によって一万二干円程の資金の積み立てが出来ていたと言う(★1)。
現教会堂はド・ロ神父亡き後の大正7年(1918)岩永信平神父の時に着工され、建設工事は後任のバルブ神父に引き継がれて大正9年(1920)に完成、同年12月18日に漸く献堂することが出来た。総工費は一万六千円(★2)とも一万八千円とも言われている。
施工は地元黒崎の大工棟梁川原忠蔵(1861〜1939)父子である。川原忠蔵一家は熱心なカトリック信者でまた名大工一家でもあった。忠蔵の父親の川原粂吉はプチジャン神父と大浦天主堂を作ったと言われる人である。また忠蔵には清次(長男)、信市(次男)、伝次良(三男)の三人の息子がおり、長男清次は後の大正13年に山野教会堂の建設を請負っている。そして忠蔵自身はこれまでに旧馬込教会堂、神ノ島教会堂の建設に関わったとされている(★3)。
当教会堂は煉瓦造で単層屋根構成、切妻屋根、瓦葺きで全長約40m、会堂幅約14mと出津教会堂を上回る長大な建物である。正面及び左右側面中程に低い切妻屋根の玄関及び出入口を突出するだけで塔屋、バラ窓等は設けず、外観は比較的簡素である。出入口や窓等開口部は全て半円アーチを基調とし、煉瓦表面は積極的に化粧材として利用されている。突出した玄関及び左右出入口の正面は吹き放ちとなっており、会堂主廊部に半間玄関部が食い込んでいる辺りも至って簡潔である。玄関部から会堂への入口は正面が両内開き板戸、その左右に片内開き板戸があり、また側面の出入ロも両内開き板戸となっている。
左右側面の窓は両内開きガラス窓と両外開き鎧戸とがセットとなり、側面の出入口を中心にして前後に4個ずつ、計8個の窓が並んでいる。
会堂平面は大変奥行きのある三廊式で、内陣部には多角形平面をなす主祭壇と両脇祭壇を有し、祭壇の後部は香部屋となっている。主廊幅(N)は18尺、側廊幅(I)は12尺、列桂間隔は11尺(★4)で、N/I=1.5と初期的な特徴を備えている。これをド・ロ神父設計とする出津教会堂のそれと対比させると、主廊幅、側廊帳をともに20%程拡げ、列柱間隔を逆に15%程縮小させた形で、N/Iは近似している。
内部列柱は角柱で、各面に半円形の付柱を有する。台座は隅切を施した正方形の石造、柱頭は簡単な飾りを付した簡素なものである。天井は出津教会堂とは全く異なり、主廊部、側廊部共に板張り4分割リブ・ヴォールト天井で、のびやかな円形アーチが会堂一杯を覆っている。奥行きの深い会堂平面と主廊部の高い天井とが相まって、会堂入ロに立つ参会者に厳粛な感じを与えずにはおかない。内部立面構成はいわゆる第?群で、アーケード(第一アーチ)、壁付リブ、横断リブ共に背が高いため明快なものとなっている。第二柱頭を結ぶ水平材も簡素なもので、装飾帯としての施しはなされていない。
天井構成は全く異なるものの、出津教会堂の持つ祭壇へ向かっての軸性、ある種の上方への広がりは当教会堂においてもそのまま再現されている。出津教会堂との対比で考えてみると、当黒崎教会堂建物へのド・ロ神父の設計関与は極めて濃厚である。他に例を見ない長大な会堂はそのまま第2期増築後の出津のそれに通ずるものがあるし、主廊幅/側廊幅が共に初期的な数値である大浦天主堂のそれに近似していることもある。また最近になって気付いたことであるが、黒崎教会堂の側面の出入口の位置が通常の教会堂のそれと異なり、長大な会堂部の真ん中に位置し、そこから左右同数の窓を配置していることである。教会堂に限らずド・ロ神父設計の建物では左右対称形が概ね踏襲されているところであり、神父の意図がここにも残されていると考えても無理はなさそうである。
造成完了後建築着工までの概ね20年の間一体何があったのか、その解明が待たれるところであるが、その間大正3年(1914)に地域の指導者であり、信望の篤かったド・ロ神父を失った地元の落胆はいかばかりであったであろう。鉄川与助がド・ロ神父から教えを受けたことはよく知られているが、当教会堂の施工者であり設計者の可能性もある川原忠蔵については残念ながらあまり書かれたものが無い。川原忠蔵について研究者の解明が待たれる。
(★1)小崎登明「長崎オラショの旅」(聖母の騎士社、1997葎1月)
(★2)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋舘」(理工図書、昭秘57年7月)
(★3)「宝亀小教区100年の歩み」(宝亀カトリック教会、昭和60年12月)
(★4)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭秘52年3月、添付図より推定)
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