交通

JR筑肥線唐津駅下車、唐津大手ロバスターミナルから昭和バス呼子フェリー発着所行き又は波戸岬行きで約30分呼子下車、呼子港から馬渡島行き郵正丸に乗船し約40分で馬渡島港下船、港からは徒歩約30分

住所

建物

〒847-0405 佐賀県東松浦郡鎮西町馬渡島1767 木造平屋 343平方メートル

竣工

設計・施工

明治18〜30年頃

【昭和4年頃長崎県平戸市紐差町所在の旧紐差教会堂を移築】

設計 不詳 施工者 不詳

見学

公開 (0955)82-9044

 

 馬渡島は呼子から船で約40分程の玄界灘に浮かぶ孤島で、面積は4平方キロメートル強、長径約5km程の島である。人目は千人たらずで約半数がキリシタンである。この島の最初の信者は文久2年(1861)に外海地方から安住の地を求めて移住した人達であり、ここでも慶応3年(1867)頃に4人の信者が唐津の牢に投獄されたことがあると言う。

 集落は島の東半分に片寄っており、港を中心とした南部に主として漁業に従事する仏教徒の人達が住み、北部の丘陵地に主として畑作に精を出すキリシタンの集落が散在している。

 明治12年(1879)11月26日公布の「長崎県外国人遊歩規定改定」により神父達の行動が自由になると、外国人神父による布教活動が活発化し、明治13年8月には島に於ける最初の洗礼の記録がある。翌明治14年には、紐差を根拠地として馬渡島をも担当していたペルー神父がこの島の聖堂建設に着手し、明治14年(1881)11月5日に聖堂が完成してプチジャン司教の祝別を受けている(★1)。この聖堂が後の昭和4年に呼子の地に移築再建された現行の呼子教会堂建物の前身であるとの説もあるが、これについては異論もあり未だ解明されていない。いずれにしても昭和4年に馬渡島にあった教会堂建物を呼子に移し、馬渡島へは平戸島から旧紐差教会堂の建物を移築再建した事実があり、それが現在の馬渡島教会堂である。

 従って現馬渡島教会堂建物の建築年代は後補部分を別として紐差における旧教会堂建物の建築年代と言うことになる。結論から言うと旧紐差教会堂の建築年代は現時点では確定出来ない。これについて川上秀入氏は「旧紐差教会堂が教会設立時に完成したと仮定して明治18年(1885)とすることができるが、教会堂建築の発展過程をふまえるともう少し年代を下げて明治18〜30年頃、もしくは明治30年前後の建築とすべきであろう(★2)。」としている。なお「紐差小教区100年の歩み(★3)」では、「マタラ帥は生国フランスの善意の方々に寄付を募り、一方地元信者の熱烈な支援と労力奉仕に依って、洋風の木造平屋で全長20m、横幅12mで、直径40cmの丸柱で立派な聖堂が完成した。」としており、この木造の立派な聖堂こそ後に馬渡島に移築再建された教会堂であることに間違いはない。しかしマタラ神父(1856〜1921)はラゲ神父の後任として明治20年(1887)に着任し、長期司牧に努め、紐差教会はもとより北松浦各地区教会の慈父と言われた神父で、「マタラ神父が建てた」のみでは建築年代は特定できない。

 馬渡島教会堂は主任司祭ヨゼフ・ブルトン神父(1875〜1957)時代に紐差の旧教会堂建物を解体し移築したものである。特色のある鐘塔は移築の際に新たに取り付けられたもので、昭和4年5月22日チリー司教により祝別された(★4)。建物は木造、単層屋根構成、切妻桟瓦葺きで、平面規模は非常に大きく、木造教会堂では木ノ浦教会堂(昭和13年建築)に次ぐ二番目の大きさである。後補のものとは言え頂部に八角のドームを乗せた方形の鐘塔は当教会堂を特徴付けるものであり、鐘塔上部の構成は構造の違いこそあれ紐差教会堂のそれとよく似ている。

 正面玄関部は会堂全幅にわたって設けられ、天井を板張りリブ・ヴォールト形式としているが、これも鐘塔と同様移転時の後補のものである。正面の尖頭アーチ形の吹放ち入口、差し掛けた切妻屋根、その上部にある丸窓、更に正面入口の左右にある上部尖頭アーチ形縦長窓等の構成は旧態に近いものと思われる。

 建物全体としては長方形をなし、左右側面中央やや祭壇寄りに切妻屋根を架する脇出入口を張り出して設けるほか、会堂両側面には柱間毎に5個の上部尖頭アーチ形縦長窓が設けられ、各窓は両内開きガラス窓と両外開き鎧戸がセットとなっている。

 会堂平面は三廊式で、主廊部及び側廊部各正面にはそれぞれ多角形平面(の主祭壇及び脇祭壇があり、主廊部の第1間上部には楽廊を設けている。主祭壇背面上方には4面の上部尖頭アーチ形縦長窓が中央祭壇を囲むように設けられ、その上部天井は板張りでヴォールト状に立ち上げられている。主祭壇部前方左右に香部屋への出入口を持ち、祭壇部の裏側が香部屋となっている。天井は主廊部、側廊部とも板張り8分割リブ・ヴォールト天井で、全てのアーチは尖頭形である。

 主廊幅(N)は16尺、側廊幅(I)は10尺、列柱間隔は10尺(★5)で、N/I=1.6となる。この数値は明治30年代までの教会堂建築に出現する比較的初期的な数値である。

 内部列柱は円柱で、八角形に円盤を重ねたような石造の台座と、やはり円盤と八角形板を重ねたような簡単な柱頭飾りを有し、第一柱頭上に伸びた第二柱にも同様の柱頭飾りを有する。

 内部立面構成はいわゆる第「群で、アーケード(第一アーチ)と聖母リブ(第ニアーチ)に囲まれた主廊壁面は無装飾の漆喰壁となっている。教会堂建築の発展過程をたどると、第二柱頭の出現から年代を下るに従って第二柱頭は上方へ上がってゆくが、当教会堂は第二柱頭が第一アーチ頂点の位置より低い所に止まっている段階のもので、建築的にも貴重な遺構と言える。

 なお、「天井がやや低めで上昇的な宗教性が失われているのは移築に際して柱の長さを短くした為」との報告(★6)がなされているが、どのような経過によったものか不明である。

 単層屋根構成、和小屋組の木造教会堂で16尺の主廊幅と各10尺の側廊幅を持ち、60尺近い奥行きを持つ架構は極めて大規模なものである。平戸・北松浦地区の中心教会を意図したればこそのものであろうが、その意味でも当教会堂建物の明治中期に於ける建築事情等についての解明が持たれるところである。

 

(★1)「福岡教区50年の歩み」(カトリック福岡教区、昭和53年5月)
(★2)川上秀人「馬渡島教会の建築について」(建築学会九州支部研究報告第33号、1992年3月)
(★3)「紐差小教区100年の歩み」(紐差カトリック教会、昭和57年2月)
(★4)山口光臣「佐賀、熊本、福岡県における天主堂建築」(建築学会九州支部研究報告第25号、昭和55年2月)
(★5)前掲(★2)「馬渡島教会の建築について」
(★6)上掲(★4)「佐賀、熊本、福岡県における天主堂建築」

 

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