交通

佐世保駅から徒歩3分

住所

建物

〒857-0863 佐世保市三浦町4-25 鉄筋コンクリート造平屋 462平方メートル

竣工

設計・施工

昭和6年(1931) 設計 不詳 施工者 不詳

見学

公開 (0956) 22-5701

 

 

 

 

 

 

 三浦町教会堂は、佐世保駅前を走る国道35号線の向かい側、駅前広場のやや左手正面の切り立った丘の上に立っている。

 明治19年(1886)5月に佐世保軍港の立地が正式に決定すると、人口三千七百人の静かな農村は急激に活気づいた。明治22年(1889)7月には佐世保鎮守府が開庁し、更に明治31年(1898)には佐世保駅が開業した。かくして迎えた明治35年(1902)4月1日、東彼杵郡佐世保村は一気に人口四万五千人の佐世保市となった。

 このまちは、日清・日露戦争では最前線基地となり、昭和初期には東洋一を誇る一大軍港部市となって人口も十三万人余、第二次世界大戦当時には市域拡大と相まって人口三十万人に近い都市に膨張していた。しかし大戦中の相次ぐ空爆により、市街地は壊滅状態で終戦を迎えることとなった(★1)。

 幸いに戦災を免れたこの教会堂は、昭和6年(1931)、時の主任司祭であった脇田浅五郎神父(のち横浜教区長)の努力によって完成したものである。建設当時の信徒数は千二百人余り、これら信者は明治中期以降の都市の急膨張と共に平戸、田平、長崎、外海等から移住してきた人達であった。

 明治23年(1890)5月に、現在地より北西1.7kmの天満町に仮聖堂を設けたのが当教会の始まりで、その後、昭和の初め頃には既に現在地に教会堂建設用地を確保していたと言う。

 銘石によれば、当教会堂は昭和6年(1931)1月19日起工、同年10月31日竣工し、12月1日に設立(法人台帳)された(★2)。当時の早坂久之助長崎司教が推進したと言われる鉄筋コンクリート造教会堂6棟のうちの1棟で、昭和6年10月1日に同司教によって祝別(★3)されている。教会堂完成時には周辺に高い建物もなく、港に入ってくる船からは真っ先に教会の十字架が望めたという。それだけにまた軍港周辺施設が一目に眺められる場所でもあったところから、大戦中は教会堂の継続使用について難問も多かったようである。

 前面の道路から当教会堂を見上げると、いやがうえにもその垂直性が強調されて、堂々たる風格を感じさせる。折れ曲がった急な階段を登り切ると、正面中央に大尖塔、左右に小尖塔を持つ会堂正面に達する。大尖塔下部は玄関部として利用され、平面的には主廊幅を確保したまま四角塔で主屋根の高さまで立ち上げ、その上の中段からは八角塔に変えて更に立ち上げたうえ、頂部に十字架を架する鋭い角錐尖塔を乗せている。入口正面は尖顕アーチとその上部に鋭い三角破風を掲げた開放入口を突出して設け、その内側の玄関部は奥行きを深めることで充分な広さを確保している。また、左右尖塔は八角塔で、中央の大尖塔同様上部に角錐塔を乗せており、これら三尖塔を取り巻く各種装飾と相まって、建物から受ける垂直性の強調意図がはっきりとうかがえる。

 教会堂建物は重層屋根構成で瓦葺き、上層左右側面には柱間毎に円形高窓が並び、下層左右側面には上部尖頭アーチ形縦長窓が各4個設けられていて、建物の中程やや祭壇寄りのところに左右脇出入口を張り出している。建物正面の第一間は玄関部及び左右両塔内螺旋階段が占めているが、建物内部平面は三廊式、玄関上部が楽廊となっており、主廊部及び側廊部各正面には多角形平面の主祭壇及び左右脇祭壇を設けている。主祭壇は奥行きがあり、その後背上部には4個の上部尖頭アーチ形縦長窓を配する。

 主廊幅(N)は22.5尺、側廊幅(I)は8.9尺、列柱間隔は14尺(★4)で、N/I=2.53となる。この数値は、煉瓦造教会堂の完成期において概ね2.0〜1.8に収斂してきたものに対して際だって大きく、これに近い事例は昭和13年に鉄川与助によって設計・施工された水の浦教会堂(重層屋根を持つ木造教会堂)の2.65があるのみである。

 天井はすべて8分割リブ・ヴォールト天井で、すべてのアーチは尖頭形であり、峰リブの上下のうねりは大きい。列柱は台座、柱頭を有する円柱で、やや大きめな柱頭には入念な装飾が施されている。

 内部立面構戊は、いわゆる第?群で、主廊部壁面には尖頭アーチによるアーケード(第1アーチ)の上に3連の尖頭アーチを模した盲アーチを刻し、疑似トリフォリウムを形作っている。晴天の日のある夕方、クリアストリー(高窓)からの斜光が光束となって祭壇中央部を神秘的に照射する時があり、私がクリアストリーの特異な効果を実感したのもこの教会堂であった。

 会堂部床面は縦板張り、内陣部は斜材を組み合わせた床板張りとしている。会堂部の一部に置き畳を敷いたこともあるが、最近は椅子式に変わっている。

 当教会堂は設計意図を比較的自由に表現できる鉄筋コンクリート造の特性を生かし、ゴシック調を意図した重量感のある整った教会堂として仕上がっている。三廊式の踏襲、リブ・ヴォールト天井の採用、内部立面構成等は従来の延長線上にあるが、その中にあって、側廊幅に対する主廊幅を従来になく大きくとることで意図的に中心軸に於ける高揚効果を狙ったものと思われる。このことは同時期に建設された馬込、平戸、浜脇の各鉄筋コンクリート造教会堂には見られないものであり、前記の水の浦教会堂のそれと共に、教会堂建築の多様化の流れに一歩踏み込んだものと言えよう。

 残念ながら「総覧日本の建築(★5)」に於いても、この教会堂の設計者、施工者とも不詳となっている。建築時期が昭和初期のことでもあり、これらのことが関係者等により明らかにされることを期待したい。

(★1)長崎県高等学校教育研究会社会部会地理分科会編「長崎県の自然と生活」(啓隆社、1988年2月)
(★2)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)
(★3)カトリック長崎大司教区司牧企画室「長崎の教会」(聖母の騎士社、1989年3月)
(★4)前掲の「長崎県のカトリック教会」添付図より推定。
(★5)日本建築学会編「総覧日本の建築」(新建築社、1988年2月)

 

★このページのトップに戻る

★このウインドウを閉じる