交通

福江バスターミナルから五島バス三井楽行きで40分、水の浦教会下車徒歩2分

住所

建物

〒853-0701 長崎県五島市岐宿町岐宿1644 木造平屋 349平方メートル

竣工

設計・施工

昭和13年(1939) 設計 鉄川与助 施工者 鉄川与助

見学

公開 (0959)82−0103

 

 

 水の浦は沿岸漁業を主とする村である。信徒達は半農半漁の生活であるが、元をたどれば楠原と同様祖先は外海地方からの移住キリシタンである。

 元治2年(1865)3月、大浦天主堂における信徒発見の出来事があってから、浦上の伝道師である甚三郎(★1)らが来島しこれを伝えるようになった。潜伏キリシタン達が宣教師再来の報を知るや、水の浦の張方久三郎(★2)らは秘かに大浦天主堂を訪ねるため、長崎への渡航を実行した。ときに慶応3年(1867)11月で、未だ厳重な禁教下にあったが、江戸では15代将軍徳川慶喜が大政奉還し、幕府が倒れる世情騒然たる時期であった。

 久三郎らは大浦天主堂にたどり着き、その荘厳さに驚くと共にクーザン神父の祝福を受けて帰島した。その報は直ちに楠原にも伝えられ、神父から頂戴した聖具が配られるに及んで、各戸では今までの形式的な仏像や神棚を容赦なく取り払ってしまった。しかし倒幕後に続く明治新政府によるキリシタン禁制はますます厳しくなり、信仰を表明する信徒の根こそぎ大量捕縛と棄教の強制は各地に始まっていた。水の浦に於いても明治元年(1868)11月、帳方の久三郎たち男30人が逮捕され、久三郎方が牢となって役人による拷問と責苦、郷民の私刑による略奪と続くのは楠原と同様であった。

 明治6年(1873)2月24日、太政官布告によってキリシタン禁制の高札は撤去されるが、この年の3月30日、当地のキリシタン復活に力を尽くした水浦久三郎は70歳の生涯を閉じた。そして久三郎の遺志は残された信者と、その後水の浦修道院の創立者となった娘の水浦カネに引き継がれていった。

 水の浦教会の歴史は古く、信徒らは明治11年(1878)には早くも聖堂建設を計画し(★3)、明治13年には木造教会堂が建設されていたようである。その頃、奥浦の大泊にマルマン神父の努力で養護施設(子部屋)が開設され、明治16年にはそれを堂崎に移して修道院(おんな部屋)も出来ると、久三郎の娘水浦力ネは明治17年(1884)に、ここ水の浦にもおんな部屋を作った。その時力ネは33歳、カネの生家がおんな部屋となった。

 現在の教会堂はそれまでの聖堂(★4)の腐朽と狭隘のために、昭和13年(1938)に鉄川組の請負によって建設されたもので、現存する我が国の木造教会堂としては最大規模のものである。また設計者鉄川与助にとってはリヴ・ヴォールト天井を有する教会堂の最後の遺構である。「水ノ浦修道院100年の歩み」によれば、昭和13年4月27日山口司教を迎えて落成式が行われた(★5)もので、”あらゆる教会建築様式を取り入れた建物”と記して、る。確かに正面入口の頂部に緩やかな反転曲線を混用する等これまでにないデザインを感じさせる。

 会堂本体は木造横板張り、重層屋根構成瓦葺きの建物である。会堂内部は三廊式であるが、側廊幅に比して主廊幅を大きくとっていることから、主廊幅、側廊幅をそのまま控柱として現す正立面は比較的安定感のあるものとなっている。正面三つの入口の上部を飾る特異な曲線、中央入口の上部に上下たくみに配置された三つの縦長尖頭窓、縦桟木を付加しながらそのまま軒下装飾帯へとつなげてゆく上部壁面仕上げ等、そこには鉄川与助の自信に満ちたディテールを見ることが出来る。そして正面頂部からは、やや控えた形で上空へ突き上げる細身の八角鐘塔があり、それは鉄川与助が3O年前に自らの設計で最初に建てた冷水教会堂の鐘塔への回帰を思わせるものがある。

 建物平面は正面入口から半間が玄関部を構成し、そのうちの一部が楽廊へ登る回り階段となっている。開放された玄関部は2本の回り階段によって三つに分かれ、中央は両内開き戸により、左右は片内開き戸によって堂内へ導かれる。会堂部は五間で、うち四間目の位置に左右出入口を突出させ、六間目から先二間が内陣部となり祭壇及び香部屋となっている。主廊及び左右側廊正面には主祭壇及び脇祭壇を有し、内陣部の床仕上げをモザイクタイルに変えているものの、全体としては比較的簡素に仕上がっている。

 主廊幅(N)は21.2尺、側廊幅(I)は8尺、列柱間隔は12尺(★6)で、N/I=2.65となる。この数値はこれ迄の教会堂がその完成期において2.0〜1.8に収斂してきたのに対して際立って大きく、他には三浦町教会堂(昭和6年建設)の2.5があるのみである。
 列柱は木製丸柱で、八角形のコンクリート台座の上に円形の石を置き、丸柱を支えている。

 当教会堂の内部立面構成はいわゆる第?群に属し、第二柱を持たない、教会堂建築の発展過程における比較的初期の形態を採っている。天井はすべて4分割リブ・ヴォールト天井で、すべてのアーチは緩やかな尖頭形である。重層屋根構成を採用したこと、主廊幅を大きくとったことと相まって、堂内はすっきりとした伸びやかな空間が広がっている。

 構造、工法の違いを超えて、一棟毎に新たな取り組みを重ねてきた鉄川与助が、戦前期の最後に建設した教会堂建築において実現したものは、その一部に様々な回帰を感じさせつつも、既に教会堂建築の多様化の流れに踏み込んだ鉄川与助ならではの特色有る建物としてここに残されている。当教会の南方、城岳の中腹にかけて、海の眺めの素晴らしい信者墓地へと道は続いており、水浦久三郎の墓があるほか、途中には信仰の白由百年記念碑・聖ヨハネ五島の立像がある。

(★1)浦上のヤリシタン、パウロ守山甚三郎(1846〜1932)
(★2)水の浦の帳力、水浦久三郎(1803〜1873)。水の浦女子修道院の創設者水浦カネ(1851〜1916)はその娘。
(★3)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書代29集、昭和52年3月)によれば「明治11年聖堂建設を計画」、「明治32年10月2日届出(法人台帳)」とあり、特に聖堂建設年度の記載がない。一方、小崎登明氏は「西九州キリシタンの旅」で”前の教会は1880年(明治13年)に建てられた"とされている。
(★4)現教会堂の建設に伴い取り払われた聖堂が明治13年建設のものか、或いは明治32年頃に再建されたものか不明。
(★5)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)によれば「昭和13年5月11日落成」となっている。
(★6)上掲書添付図より推定。

 

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