交通

中通島奈良尾港から西肥バス青方行きで約 20分中ノ浦下車徒歩2分。
青方バ
スターミナルからは西肥バス奈良尾車庫行きで約 40分中ノ浦下車

住所

建物

〒 853-2303 長崎県南松浦郡新上五島町宿ノ浦郷中ノ浦 木造平屋  218平方メートル

竣工

設計・施工

大正 14年(1925) 設計 不詳 施工者 不詳

見学

公開 (0959)45-3936 
主任教会は桐教会 (0959)44-0006

 

 

 

 

 中ノ浦教会は桐教会の巡回教会として、若松瀬戸の笛吹浦から入り込んだ小さな入江に面した中ノ浦に所在する。そばを国道 384号線が走り、車窓からも眺められるが、静かな入江を回り込んだ対岸から見る教会建物のたたずまいは絵になる風景である。

 この地の信者遠の祖先は寛政年間に入村藩外海地方の黒崎から移住した者である。桐古里、宿の浦に於ける明治初年の迫害は、当時伝道士として活躍したガスパル与作の出身地が桐の浦であったことから、真っ先に主だった十数入が捕らえられ算木責めの拷問を受けた。特に与作の父善七は厳しく責め立てられたと言う(★ 1)。ガスパル与作は慶応元年(1865)に大浦天主堂が完成すると五島から最初に大浦天主堂を訪ね、プチジャン神父に若松島には千人以上のキリシタンがいることを伝えた人で、その後伝道士として活躍を続け、解禁後の明治10年には自宅を仮の教会とすると共に伝道学校を開設した入である。いま信仰先達者顕彰碑が桐教会境内に建てられている。

 中ノ浦教会堂は大正 14年(1925)8月に建立、大崎八重神父により祝別された(★2)。建築費には1万3千円を費やし、その返済は昭和14年までかかったと言う(★3)。

 建物は木造、重層屋根構成、桟瓦葺きで、正面の十字架をあげた鐘塔は昭和 41年3月入口部分の増改築時に付加されたものである。つまり正面玄関部分の1間は増築部分で、入口は吹き放ちとなっており、その上部に屋根を八角錐形に仕上げた方形の鐘塔を立ち上げている。

 会堂入口は正面玄関部からは主廊部に対応した中央の両内開き扉と、その左右側廊部に対応した 2面の片内開き扉があり、会堂の祭壇近く左右側面からは各1ケ所の片内開き扉を設けて脇出入口とし ている。この左右脇出入口には簡単な切妻の屋根をかけている。

 外壁正面は縦板張り、側面は下見板張りと外壁の仕上げが異なるが、窓についても正面は単純な縦長窓であるのに対し側面は上部円形アーチ形組長窓で、各窓は両内開きガラス窓と両外開き板戸がセットとなり各スパンに1ケ所設けられている。

 建物外部には装飾的なものは見当たらず、外観としては塔屋による垂直性の強調と重層垣根を目立たせる作りが印象的であるが、教会堂内部は簡潔ではあるが至って明るい垂直性を強調した作りが見られる。

 内部平面は三廊式、主廊部及び側廊部各正面には多角形平面の主祭壇及び脇祭壇を設け、両脇祭壇の左右から主祭壇後方にかけて香部屋を設けている 。

  天井は会堂部が主廊部、側廊部共に横板張り析上天井で、祭壇部は漆喰仕上げリブ・ヴオールト天井として仕上がっている。会堂部と祭壇部が異なった天井形式を採っているが、その接続部分に特別な違和感は無く、釣り合いのとれた処理がなされている。主祭壇後方上部左右には上部円形ア ー チ形縦長ガラス窓が配され、内陣部に彩りを添えている。

 主廊幅(N)は 15尺、側廊幅(I)は7.5尺、列柱間隔は8.8尺(★4)で、N/I=2.0となる 。 列柱は上部がやや細まった円柱で、正方形に円盤を乗せた台座と簡素な柱頭を持ち、柱頭の上部で簡単な刳り型を有する水平材をしっかりと支えている。またこの水平材は装飾帯となって堂内を巡っており、その上部から大坪までの主廊部壁面は重層屋根特有の高さがあり、菱形と花柄を装飾的に組み合わせた文様で彩られている。更に天井面にも各格縁の真ん中に花弁を模した装飾が付されており、荘厳の内にも華やかな印象を与えてくれる 。

  この辺りの構成は、大正 9年(1920)に鉄川与助か設計・施工し今は倒壊し失われた細五流教会堂に酷似しているが、細石流教会堂の方が主廊部壁面の高さが抑えられていること、側廊部外側のいわゆる壁付柱にもしっかりと台座を設けていること等、総じて骨太の感じを特っていたように思われる。

 中ノ浦教会堂を建築した棟梁が誰であるか分からないが、細石流教会堂にそのモデルを求めていることは確かであろう。一方、当教会堂の祝別者であり発注者とも思われる大崎八重神父は、明治 40年の冷水、明治41年の野首、明治43年の青砂ケ浦、大正5年の大曽及び大正8年の頭ケ島と、鉄川与助が自立発展していく一時期に建設した教会堂の発注者或いは信徒指導者として鉄川与助と関わりを持った神父である(★5)。鉄川与助か中ノ浦教会堂の設計・施工者ではないにしても、当教会堂の構成、出来栄え等からみて直接或いは間接に何等かの関わりを持ったように思えてならない。

 なお昭和 41年3月に行われた人口部分の増改築は地元大工藤原又三郎が請負っている(★6)。

 

 

(★ 1)木堀田直「キリシタン農民の生活」(葦書房、1985年12月)
(★ 2)カトリック長崎大司教区司牧企画室「長崎の教会」(聖母の騎士社、1989年3月)による。なお川上秀人他「教会堂における析上天井について」(建築学会計画系論文報告書第351号、昭和60年5月)には中ノ浦教会堂(大正14年)の注記として「祝別表によるとユゼ師(A ・ Heuzet)によって大正15年8月5日に祝別された。」と記されている。また、後掲(★3)「長崎県のカトリック教会」では大正14年8月に献堂式が行われた旨記載されているほか、「昭和2年8月5日現教会新築一法人台帳−」の記載がある。
(★ 3)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)
(★ 4)上掲書付図より推定。
(★ 5)畔柳武司「大工鉄川与助について」(建築学会東海支部研究報告、昭和53年2月)
(★ 6)上掲(★3)の「長崎県のカトリック教会」による。

 

★このページのトップに戻る

★このウインドウを閉じる