交通

平戸桟橋バスターミナルから西肥バス生月一部桟橋行き、又は堂の元経由紐差行きで約15分、古江道下車徒歩約60分。
(平戸桟橋からタクシーで約25分)

住所

建物

〒859-5145 平戸市古江町大瀬 木造平屋 66平方メートル(会堂部分)

竣工

設計・施工

明治32年(1899) 設計 不詳 施工者 不詳

見学

非公開(巡回教会) 主任教会は平戸教会 (0950) 22-2442

 

この写真の教会は、
1990年に木造で新しく建て直されました。

 

 

 当教会堂について記した資料等は少ない。「長崎の天主堂その信仰と美(★1)」によれば当教会堂は明治32年7月15日献堂となっている。また昭和51年度に長崎県教育委員会が行った文化財調査「長崎県の力トリック教会(★2)」では明治32年7月15日設立(法人台帳)となっている。

 古江教会堂は平戸教会の巡回教会となっているが、その立地上から一般に訪れる人も少なく、また、会堂建物の補修の跡が激しく、建築紹介を目的とする本書の記載に迷う建物である。まず所在地が平戸島の北部、県道19号平戸田平線にある古江道バス停から古江湾に沿うように付けられた山間の道を約4km北上した大瀬部落である。ここはもう古江湾を形作る岬の先端に近い。しかしこの山道をたどりながら、禁教下の潜伏キリシタン達がこの様な山中で秘かに信仰を守っていたこと、むしろこの様な陸の孤島であったればこそ信仰を守り通すことが出来たのであろうことに思いを馳せるとき、僅かに残された明治時代の遺構とは言え、いまその存在をありのままに記しておくことが必要と考えた。

 一方、当教会堂建物は一見して教会建物とは見えない程に後補が進んでいる。外観のみでなく、例えば会堂天井部だけを見ても入口に近い部分の平天井、中間部分の船底形天井、そして祭壇部上部に残るいわゆるコウモリ天井と三種類の形式が混在しており、その接続部はいかにも不自然で、とても当初からの形態とは考えにくい。その中でも恐らく当初からのものと考えられる部分は祭壇部であり、特に祭壇後部壁面上部に存する4つの窓と板張りリブ・ヴォールト天井が注目される。

 半円形と見間違える程に僅かに尖頭形頂部を持つ太い木造窓枠に固定された縦長窓と、そこに残るステンドグラス。柱や柱頭及び柱頭を水平に結ぶ装飾帯等に後補を思わせるものの、しっかりと祭壇上部を構成するリブ・ヴォールト天井は古さを感じさせ、これらが祭壇付近に凝縮された形で昔日の面影を残している。

 現存の建物平面から見ても解明すべき課題はあまりにも多い。先ず会堂部分からみても現在建物は単廊式の部類に入るが、はたして当初から単廊式であったものかどうか。戦前に建設され現存する木造教会堂で単廊式のものは、簡易化された民家風のもの(例えば長崎市三重樫山郷に所在する樫山教会堂(★3))を除いては他に例を見ない。そして祭壇部に残る遺構は簡易化を図った教会堂のそれとは考えにくい。

 次に何等かの理由で三廊式会堂の主祭壇部のみが残されたものと仮定すると、主廊幅が約16尺あることとなり、これは比較的大規模な教会堂の部類に属する。例えば旧紐差教会堂を移築した現馬渡島教会堂(木造では最大級の教会堂)の主廊幅が16尺である。

 現在地にその様な大規模な教会堂が明治期に建設されたとも考えにくい。

 振り返って明治中期から後期にかけて一般に木造教会堂の窓形式は変化してきており、明治10から20年代にかけて明らかに尖頭形であったものが、40年代から大正期にかけて半円形に統一されてゆく流れをもっている。同時期に建設された宝亀教会堂の窓形式がより鋭い尖頭形をなしていることを考えあわせると、当教会堂にのこる半円形に近い窓形式は比較的早い出現と言うことが出来る。

 いずれにしても当教会堂建物は老朽化も進んでおり、明治中期の遺構として、その特異な形態とあわせて早期に調査解明されることを期待したい。

 

(★1) 村松貞次郎「長崎の天主堂その信仰と美」(技報堂出版、1977年8月)
(★2) 長崎県教育委員会「長崎県の力トリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)
(★3) 小規模で民家風の建物で、上掲書には「大正13年8月12日献堂式執行(法人台帳)」の記載がある。

 

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