交通

平戸桟橋バスターミナルから西肥前バス宮の浦又は志々岐行きで25分 宝亀宿下車車徒歩7分

住所

建物

〒859−5366 平戸市宝亀町1170 木造・一部煉瓦造り平屋 245平方メートル

竣工

設計・施工

明治31年〜32年(1998〜99)頃 設計 不詳 施工者 不詳

見学

公開 (0950)28−03241

 

 

 

 片岡弥吉氏の「長崎のキリシタン」によれば、長崎県における潜伏キリシタンは大別して「外海・五島・浦上系」と「生月・平戸系」があり、それぞれ潜伏時代の態様が異なると言われる。特にその接点となる平戸島内に於けるキリシタン集落の成立過程は場所により様相を異にしている。  

 宝亀教会堂が所在する京崎・宝亀地区の信者は、潜伏時代に外海地方から移住した信者達の子孫が主流となっている。洗礼帳によると明治11年に既に家御堂が京崎に存在していたらしいが、明治18年(1885)には京崎地区に仮教会が建てられた。その時には18戸の信者が居たという(★1)。

 明治20年(1887)には、ペルー神父、ラゲ神父の後を受けてマタラ神父(1856〜1921)が紐差に着任し、平戸・北松地区の主管者として永く巡回司牧し、また各地の教会堂建設などを指導していた。当教会堂は明治30年頃にマタラ神父自らが指導監督して建設にかかり、明治31年(1898)3月18日落成した。翌明治32年1月19日に教会設立認可を得て、宝亀教会はそれまでの巡回から神父の定住する地区教会となった。

 建築の費用として約千円を当時約50戸の信者全員が拠出し、不足分(千円以上と言われる)はマタラ神父が補足して賄った(★2)。煉瓦や材木その他の資材は外海、黒島或いは田平の方から大型船で運び、浜からは信者達が背負って上げたが、その時には紐差の信徒の協力も受けた。一方、漆喰などは住民が総出で貝殻を拾い集めて焼くなど部落ぐるみの協力が行われた。これらの労力奉仕を見て、一部の人からは「フランス人から銭をやるからキリシタンにならないかと言われて改宗したのではないか」と言われたという。

 当教会堂建物を建てた大工の棟梁は「宇久島の出身者(氏名不詳)」で、彼は若い頃黒島へ民家を造りに行った際に、黒島キリシタンの熱心な信仰に触れて洗礼を受けたと言う(★3)。この「宇久島の出身者」が、後に黒島教会堂の建築に加わったと証言のある「宇久島出身の柄本庄一氏(★4)」と同一人物であるか否か、今のところ確認できない。

 宝亀教会堂は平戸瀬戸を見下ろす高台にある。建物は木造切妻、単層屋根構成、瓦葺きで、外壁は下見板張りであるが、建物正面の玄関部分のみ1間が煉瓦造となっている。この煉瓦造部分の正面はモルタル塗り着色仕上げとなっており、左右側面は煉瓦面を露出させている。

 建物正面は柱形によって三つに区分され、主廊幅に対応する中央正面は、2連の尖頭アーチによる吹き放ちの入口と、その上部に7連の尖頭形盲アーチとバラ窓風に仕上げた装飾があり、最上部には3連の尖頭アーチを画き、中央アーチ内に天主堂の文字を入れる。また、左右側廊幅に対応する正面は、尖頭アーチによる吹き放ちの入口と、その上部に大きな盲アーチを画き、現在はこの部分に受け台を設けて聖像を載せている。

 会堂部左右側面には下屋が付され、尖頭アーチによるアーケード(柱廊)となっており、側廊部とアーケードとの間は窓ではなく、柱間ごとに上部尖頭アーチ形に枠取りした中に円形のはめ殺し窓を設け、その下部に両内開きガラス扉と両外開き鎧戸をセットとした出入り可能な開口を5面設けている。このアーケードの天井は斜め板張りの透かし天井となっており、長崎の洋館(住宅)等で見かけるテラスにも似た造りが行われている。

 煉瓦造部分の1階は吹き放ちの玄関部で、ここから会堂への出入口は3ヶ所あり、中央の扉は両内開き板戸、左右の扉は片内開き板戸となっている。

 内部平面は三廊式で、主廊部正面に矩形平面の祭壇を持ち、祭壇の後部には香部屋へ通ずる扉があるが、その上部には尖頭アーチ形の窓が大きくとられている。祭壇部の天井は会堂部の天井をそのまま延長したもので、脇祭壇は持たず、総じて祭壇部の造りは簡素である。天井は主廊部、側廊部とも板張り4分割リブ・ヴォールト天井で、全てのアーチは尖頭形であるが、横断リブが比較的高くとられているためか、天井面の陰影をあまり感じさせない。

 主廊幅(N)は14尺、側廊幅(I)は8尺、列柱間隔は9尺(★5)で、N/I=1.75となる。この数値は明治10〜20年代の1.6前後のものから、明治30年代後半以降の主流となる2.0との中間的な数値であり、この辺からも教会堂の発展過程からみた時代区分としては準備段階を終えて展開期に入る建物と考えられる。

 内部列柱は木製の台座と柱頭を有する四角柱で、各面に半円形の付け柱があり、主廊側の付け柱は第一柱頭を切って上方へ伸び第二柱頭に達している。柱頭はアカンサス紋様を刻した簡素なものであるが、現状はこれに彩色を施すなどして、第一及び第二柱頭ともリブの起点としての存在をしっかりと示している。また、台座は八角形の部材を4個束ねた形のもので、それぞれに円盤形の部材を重ねるなど、束ね柱の形式を踏襲する意図がうかがわれる。

 内部立面構成はいわゆる第?群で、主廊部壁面には尖頭アーチによるアーケード(第一アーチ)の上に装飾帯を設け、その上端に接して第二柱頭を置いている。第ニアーチ壁面は漆喰仕上げで、円弧を用いた簡単な線画が画かれている。

 内部床は内陣部に祭壇寄りの1間を充て、会堂部は縦板張り、内陣部は横板張りと床仕上げを変えており、また正面入口から祭壇へ向けての中心線に沿って、一定幅についての床仕上げを変えている。なお屋根小屋組はトラス架構であり、側廊部に対して主廊部の天井が際だって高く、それを単層屋根構成で処理するため、側廊部の小屋組には2本の繋梁が使われている(★6)。

(★1)力トリック長崎大司教区司牧企画室「長崎の教会」(聖母の騎士社、1989年3月)
(★2)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年7月)
(★3)小崎登明「西九州キリシタンの旅」(聖母の騎士社、1993年8月)
(★4)「信仰告白125年(1865〜1990)黒島教会の歩み」(黒島カトリック教会、平成2年4月)
(★5)佐藤浩、山本輝雄「異国情緒をそそる島平戸島の2つの洋風教会堂について」(建築学会九州支部研究報告第17号、昭和43年2月)
(★6)日本建築学会編「総覧日本の建築9」(新建築社、1988年2月)

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