交通

福江バスターミナルから五島バス岐宿・三井楽行きで30分岐宿下車、岐宿から富江行きに乗り換え10分楠原下車徒歩3分

住所

建物

〒853−0703 長崎県五島市岐宿町楠原 煉亙造平屋 307平方メートル

竣工

設計・施工

明治45年(1912)頃 設計 不詳 施工者 不詳

見学

非公開(巡回教会)主任教会は水の浦教会(0959)82−0103

 

 

 

 

 楠原の信者は、その元をたどれば外海の黒崎、三重、神ノ浦の出身である。寛政9年11月、六方(むかた)の浜に上陸した政策移住第一陣のグループの子孫である。岐宿村では楠原、水の浦、姫島等に移住キリシタンが居り、楠原は山中にあっても農耕地に恵まれ百姓信者の数も多かったが、福江藩の年貢の取り立てもまた厳しかった(★1)。禁教の時代にも信仰を表に現さなければ表沙汰にされることも無かったが、幕末になって長崎・大浦に宣教師再来の報が入ると、これら信者達はお互いに連絡を取り合い公然と信仰活動を行うようになった。

 明治政府になってキリシタン禁制がますます強化され、信仰を表明する者の続出する中で、明治元年11月には代官による捕縛が始まり、水の浦、姫島、楠原の信者80名程が順次水の浦の牢に集められることになった。棄教を迫る過酷な拷問と体罰に耐えかねて、口先だけの棄教を申し出て帰宅を許された彼等を待っていたのは郷民による略奪であり、それに続く悲惨な生活であった。現在、教会堂の北東400m程の東楠原に、この地のキリシタンが最初に投獄された楠原牢屋敷跡があり、そこには昭和46年8月18日「信仰の自由百年」を記念して建てられた中田秀和氏作の農民像が置かれている。

 楠原教会はチリー神父の下で明治44年(1911)10月11日設立(法人で台帳)された。教会堂建物の献堂或いは祝別等については、?チリー帥が資金調達し、ペルー師の設計指導でチリー師転任後完成、大正2年(1913)コンバス司教によって祝別(★2)、?鉄川与助氏の施工で、明治43年11月、チリー神父の時完成、翌明治45年1月に献堂(★3)、?ペルー神父が1912年(明治45年か大正元年)に祝別、等の諸説がある。

 楠原教会堂は堂崎天主堂の完成後、鉄川与助を含む同じ工人グルーブによって着工されたものと考えられる。堂崎天主堂の建設に於いてペルー神父の信任を得た鉄川与助が、神父の指導を受けながらも設計をまかされた形で施工したと言うのが実態に近いのではなかろうか。

 楠原教会堂建物は煉瓦造で重層屋根構成、正面は全幅にわたって吹放ちの玄関部となっており、その形式は堂崎天主堂のそれと同様である。しかし堂崎天主堂のように正面中央部を突出させて鐘塔を作る形式は採らず、会堂正面は平面的に仕上がっている。これは当教会堂建物より1年程前に鉄川与助の設計施工により完成した青砂ケ浦教会堂(明治43年10月献堂)のそれに近い。

 会堂の正立面は三層に分かれ、初層は尖頭アーチの出入口3ヶ所、中層中央部には高さを変えた3連のアーチ窓、その左右にはブラインド丸窓が配され、その上の屋根形はへの字形の独特な形状をなしている。最上層は2連の鎧戸付き尖頭アーチ窓となり、その上部屋根は切妻で、外形は青砂ケ浦のそれとよく似ている。初層と中層、中層と上層の間には煉瓦積みを変える等により装飾帯が作られ、それと直交するように控柱を突出させることで正面の垂直性の強調が図られている。会堂両側面には各5個の上部尖頭アーチ形縦長窓のほか左右出入口を持つ。これらの窓には以前は外開きの鎧戸が付いていた。

 当教会堂は昭和43年6月に会堂部の一部から内陣・祭壇部にかけて鉄筋コンクリートによる大改修が行われている。内部列柱も当初部分は木柱であるが、改修部分はコンクリート柱となり、天井部分に至っては当初部分のそれが主廊部、側廊部とも4分割リブ・ヴォールト天井であるのに対して改修部分は平人井で仕上がっている。

 建物内部平面は三廊式で、主廊廊(N)は15尺、側廊幅(I)は7.6尺、列柱間隔8.5尺(★4)で、N/I=2.Oとなり、その数値は教会堂建物の完成期の値を示している。列柱は木製丸柱で八角形の石の台座を有し、列柱上部には植物模様を施した第一柱頭があり、その上に2本の半円形の付柱を持つ第二柱を乗せている。この第二柱の付柱にも台座風の造作がなされており、簡素ながらもしっかりと立ち上がって第二柱頭に達している。

 内部立面構成はいわゆる第V群で、第二柱頭の位置は(第一アーチ)の頂点の位置より高く、第二柱頭を水平に結ぶ装飾帯もしっかりと造作されている。総じてこの立面構成は青砂ケ浦教会のそれと酷似しており、鉄川与助の関与を強く印象付ける。

 当教会堂建物は、重層屋根構成を採っているもののクリアストリー(高窓)を設けるまでに至らない段階、つまり内部立面構成の充実を意図して屋根構成を変えて行く過程のものと言える。単層屋根の制約を解いて、伸び伸びと立ち上げたリブ・ヴォールト天井によって形成される内部空間の充実と垂直性の強調は充分効果をあげている。

 会堂部床面は縦板張り、うち入口から第五間迄は床面中央部長軸方向に寄木張りがなされており、建物正面からこの辺りまでが当初からの建物と言える。なお会堂部第一間に楽廊が設けられているが、これは後補のものである。

 外壁煉瓦積みは鉄川与助設計の教会堂に共通するイギリス積みであり、ここでもペルー神父の設計指導した旧井持浦教会堂や堂崎天主堂のアメリカ積みとは異なったものとなっている。鉄川与助が西洋建築技術の最初の手ほどきを受けたのはペルー神父で、リブ・ヴォールト天井を架ける方法と幾何学を学んだと言う。それから10年余、ここ楠原教会堂の建築は鉄川与助がペルー神父のもとを離れて長崎へ巣立つ記念碑的な作品と言えよう。

 

(★1)木場田直「キリシタン農民の生活」(葦書房、1985年12月)
(★2)お告げのマリア修道会「水ノ浦修道院100年の歩み」(聖母の騎士社、昭和59年12月)
(★3)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年7月)
 同書P182〜183にて太田氏は「堂崎天主堂を明治41年に完成した後で楠原天主堂を着工したことは、奥浦町浦頭教会付属修道院におられた梅本つや氏(明治28年生)がよく記憶されるので、明治44年に出来たことは間違いない。」とされている。記述の前後関係から見ると、明治43年11月は明治44年11月の誤記の可能性がある。
(★4)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)添付図より推定。

 

 

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