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旧大浦天主堂は、その前身である創建大浦天主堂が大風により一部損壊し、また明治6年の切支丹開放令以降に急増する日本人信徒による狭隆を解消するため、プチジャン司教及びボアリエ神父の指導により旧来の建物を四方へ拡張したもので、創建時の木造建物を取り込みつつ外壁を煉瓦造とする大規模な増改築を行って現在の姿になったものである。完成した旧大浦天主堂は明治12年(1879)5月22日プチジャン司教によって祝別された。
この世紀の増改築を担当した人物は、当時浦上随一の大工と言われた溝口市蔵のほか天草の大工棟梁丸山佐吉、伊王島出身の大工棟梁大渡伊勢吉(のちに旧大明寺教会堂を建築)が挙げられている。外海出身の大工川原粂吉(のちに黒崎教会堂を建築した川原忠蔵の父親)も「プチジャン神父と大浦天主堂を作った(★1)」と言われており、創建時或いは増改築時かいずれかの時期に工人として関与していたようである。
旧大浦天主堂は現存する日本最古の教会堂建物であり、昭和8年(1933)1月28日に旧国宝に指定されていたが、原爆で被害を受け一時荒廃していた。昭和26年に修理工事が行われて昭和28年(1953)3月31日に国宝に指定された。
建物構造は煉瓦造であるが、外壁表面は漆喰等に覆われており煉瓦は表面に露出していない。煉瓦を意匠材として意識せず石造を擬したものと思われるこの手法は、3年後に建設される出津教会堂にもみられる。
建物正面中央部にはやや繊細な作りの八角尖塔を持ち、重層屋根構成をそのまま正立面に現し、主廊部に対応する中央正面を四本の控柱によって三つの部分に区分して、それぞれに尖頭アーチを持った出入口とその上部の縦長の窓を設けている。また、側廊部に対応する正面には当教会堂を特徴づける尖頭窓を左右に配する。
正面切妻屋根の軒先には鋸歯状装飾(ロンバルディアベルト(★2))が付けられており、全体として簡素ではあるが垂直性強調の意図が感じられ、入口中央正面に立つ優美なマリア像と共に、階段を上る参会者に聖なる空間への期待を抱かせるに充分なものがある。
内部平面は他に例を見ない五廊式で第二側廊を持っているが、第二側廊部は柱間毎に仕切られて小祭壇等が設置されているので、会堂部としては三廊式と呼べるものである。
玄関は主廊部に一間入り込んでおり、第二間までの上部が楽廊となっている。主廊幅(N)は20.OO尺、第一側廊幅(I)は12.30尺、第二側廊幅は7.15尺、そして列柱間隔は10.00尺(★3)で、N/I=1.65となる。天井は全て漆喰仕上げ8分割リブ・ヴォールト天井で、アーチは全て尖頭型、支持する列柱は台座・柱頭を持ち半円形の付柱を有する円柱である。
内部立面構成はいわゆる第?群で、アーケード(第一アーチ)の頂点と第二柱頭との間にはトリフォリウムが設けられており、トリフォリウムは奥行きがないものの柱頭・台座を有する小円柱で支持された五連の尖頭アーチをもって構成されている。トリフォリウムの上部は壁付リヴ(第二アーチ)によって囲まれた漆喰壁で・内陣部の三間には大きなクリアストリー(高窓)が設けられている。なお創建時には会堂部にもクリアストリーが存在していたようである。
会堂部床面は板張り)、主祭壇は奥行きのある矩形平面で、脇祭壇は多角形平面となっており、祭壇部床面には寄木張りがある。屋根小屋組は和小屋組、屋根は桟瓦葺である。なお祭壇部床下にはプチジャン司教の墓が現存する。
教会堂建築の発展形態からみると、この旧大浦天主堂は現存する最古の教会堂でありながら、最後の完成された形態を保持しており、極めて特殊な史的な位置を占めた建物と言える。当天主堂ではその建設過程において外国人神父の指示が細部にわたって強く働き、一方日本人棟梁達は見たこともない建物を作ることから恐らく神父の指示に忠実に応じていたであろ。そしてそのことが、この天主堂が完成された形態を最初に保持する理由と考えられる。
技術的蓄積を踏んだ日本人棟梁が自らの設計によりこの完成された形態に到達するのは、鉄川与助が大正2年(1913)に建設した今村教会堂においてである。
補遺 創建大浦天主堂についての覚書
創建大浦天主堂の建築について私共はその全貌を知ることは出来ない。昭和26年(1951)に旧大浦天主堂の修理工事が行われた際にも各所に新旧材が混在しており、遺構そのものによって創建時の形態を推定することは困難であったという。従って私共は残された写真或いはエッチング等によってその面影を偲ぶしかない。
創建大浦天主堂は長崎地区で本格的天主堂として建設された最初のものであり、以後長崎を中心とした力トリック教会堂建築に大きな影響を与えているところから、その建設の経緯等について桐敷真次郎著「大浦天主堂」(中央公論美術出版、昭和43年9月)、或いは川上秀人氏の労作「長崎県建造物復元記録図報告書(洋館・教会堂)(長崎県教育委員会、昭和63年3月)等の記述から覚書的に整理しておきたい。
安政5年(1858)から6年にかけてアメリカを皮切りにロシヤ、イギリス、フランス、オランダと結んだ通商条約によって鎖国が解かれると、パリ外国宣教師会のジラール神父(1821〜1867)は安政6年(1859)9月6日、滞在中の那覇から江戸に入った。日本教区長に任命されていたジラール神父は聖地長崎に布教し、「日本26殉教者聖堂」の建設という大事業を遂行するため、沖縄に待機中のフューレ神父(1816〜1900)とプチジャン神父(1829〜1884)に日本入国を指名した。フューレ、プチジャンの両神父は文久2年(1862)12月に先ずは横浜に入り、長崎大浦に居留地が出来ると居留地に付随した天主堂を作るため、文久3年1月と8月に相次いで長崎に入った。
フューレ神父は直ちに居留地に隣接する現地の入手申請をし、先ず司祭館の設計・建設に着手した。聖堂の設計も並行して進めたが、同神父は同年10月にフランスに帰国し、残務はプチジャン神父に引き継がれた。同年11月にはローカーニュ神父が長崎へ赴任してきたので、以後プチジャン、ローカーニュ両神父の手で聖堂の建設と日本人への布教策が練られていた。しかし、この時期は日本人には信教の自由は無く、禁教政策下の聖堂の建設も居留地在留外人の為にのみ認められたものであった。聖堂建設の工事を請け負ったのは天草の大工棟梁小山秀之進(後に秀と改名、明治31年没)であった。小山棟梁の下に伊王島の大渡伊勢吉、浦上村の溝口市蔵、外海村の川原粂吉らの大工がいたと言われる(★4)。禁教下においては工人として参加することにも相当な覚悟を要する時代であった(★5)。
創建大浦天主堂は元治元年(1864)12月29日に漸く完成し、翌元治2年(1865)2月19日、江戸から駆けつけたジラール日本教区長の手で献堂式が挙げられた。
できあがった天主堂は正面の中央に大尖塔、左右に小尖塔を持つ三廊式平面の小規模ではあるが本格的な木造教会堂であった。前掲書の言葉を借りれば「創建時の天主堂は華やかなものであった。黒地に白い格子のナマコ壁を区切る白い柱形、三段の蛇腹に入念に描かれた装飾文様。バラ窓の上を飾る「救世主イエズス」と「天主堂」の文字と教皇ピウス九世の紋章。大小三つの尖塔にかがやく金色の十字架。それは世界のいかなる国にも見られない独特の姿と彩色をもったふしぎな建築であった。お伽の国の教会堂か、あるいは巨大なオモチヤ箱を連想させるファンタスチックな何ものかがあった。この教会堂は単に日本人を驚かせただけではない。在留外人の眼も大いに楽しませたにちがいない。」と記している。
建物外壁は方形の平瓦を張り、それらの隙間に漆喰を格子状に盛り上げたいわゆるナマコ壁となっており、その他の外壁や柱形、軒先等も漆喰で塗り上げて土蔵造りのようになっていた。主廊上部の高窓や側廊部の窓は尖頭アーチを持つ窓であるが、窓や戸口を除いた建物の外壁の構成や柱形、玄関まわりは古典様式であり、屋根上の尖塔はまたゴシック風の木造八角塔である等、この聖堂の外観は古典様式とゴシック様式の混合様式であった。
この聖堂建設より三年程前、つまり文久2年(1862)1月12日に祝別された創建横浜天主堂(聖心教会堂)が古典様式にもとづく神殿風のポーチを持ち、内部天井の形式は不明とされているが、創建大浦天主堂が前記のような混合様式であり、内部天井の形式が今日見られるリブ・ヴォールト天井であったことと併せ考えると、その対応関係は興昧深いものがある。なお現在の旧大浦天主堂の主出入口は両内開き板戸で、その上方には尖頭アーチのはめ殺し窓が付されているが、この窓は創建時のものではないかと言われている。
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(★1)「宝亀小教区100年の歩み」(宝亀カトリック教会、昭和60年12月)
(★2)11世紀初頭のロマネスク時代から北部イタリアのロンバルディア地方を中心として行われた装飾の名残で、この地方から始まって広くヨーロッパ全体に流行した。
(★3)「長崎県建造物復元記録図報告書(洋館・教会堂)」(長崎県教育委員会、昭和63年3月)
(★4)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年7月)
(★5)光藤俊夫「明治・大正建築覚え書」(学芸出版社、1984年10月)
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