鯛ノ浦は幕末期における上五島の切支丹指導者として活躍したドミンゴ森松次郎の出生地である。寛政期に大村藩外海の出津浜から逃れてきた切支丹がここに居付き、その後潜伏キリシタン部落として秘かに生活していたが、大浦天主堂に於ける信徒発見の出来事をきっかけに事態は急変していった。桐ノ浦の青年ガスパル与作に次いで鯛ノ浦の森松次郎等が信仰の灯をともして歩き、慶応 3 年(1867 ) 2 月には長崎から秘かにクーザン神父を案内し、神父は鯛ノ浦から頭ケ島にかけて 11 日間滞在して宣教に努めるまでになっていた。
間もなく明治新政府が発足するところとなったが、引き続く禁教政策のもとでキリシタン弾圧は巌しさを増し、明治元年末から翌年にかけて一時は全部落を挙げて逃亡せざるを得なかった。弾圧も納まったらしいとの噂で流浪の生活から戻り始めたキリシタン達を襲ったのは「鯛之浦の六人斬り」と言われる残忍きわまりない出来事であった。明治 3 年正月、新しい刀の試し切りと称して胎児を含む二家族六人が有川村の郷士に殺害されたものである。さすがに下手人の郷士四人は入牢、引き回しのうえ切腹を命ぜられたが、福江藩による迫害は戻り来るキリシタン達を待ち構えてますますエスカレートしていった。
高札撤去から更に数年、落ち着きを取り戻した明治 10 年代、大浦の司教区でも鯛ノ浦の存在を重視してブレール神父を派遣することとなり、明治 13 年にはブレール神父によって恵まれない子供のための養育院が建てられ、翌 14 年(1881 )には最初の天主堂が完成した(★ 1 )。教会の設立に力を尽くしたブレール神父には後日談があり、明治 18 年 4 月、外海の出津にド・口神父を訪ねたブレール神父は、急病人が出たため急きょ迎えに出た信者 12 人と共に帰途海難事故に遭遇し、全員が帰らぬ人となってしまった。なおこの地にはブレール師遭難記念碑がある。
明治 36 年(1903) 4 月、ペルー神父の指導により場所を現在地に移して教会堂を造り替えたのが現在の旧聖堂であり、昭和 54 年に現在の教会堂が出来てからは図書室その他宗教教育施設として残されている。
ペルー神父(1848 〜 1918)は故国フランスにおいて高等工業程度の学校で建築学を会得していたと言われ、明治 21 年以降五島地区を担当してからは井持浦(明治 28 年)、鯛ノ浦(明治 36 )、堂崎(明治 41 年)と各地の教会堂の設計指導を行い、教会堂建築を通じて地元の大工棟梁に西洋建築工法を指導していった(★ 2)。
この旧聖堂は太平洋戦争の末期、鯛ノ浦港に特攻基地が設けられた際に軍に接収されて基地司令部となっていたが間もなく終戦となり、戦後の昭和 21 年乃至 24 年に煉瓦造の鐘塔を正面に付ける改造が行われている。この改造時に窓枠の裏側に鉄川与助の墨書が見つかったと伝えられているが、この旧聖堂の建設時には鉄川与助は副棟梁的な立場で建設に関わっていたようである。
旧聖堂建物は木造、単層屋根構成桟瓦葺き、外壁は下見板張りで正面には戦後増築された煉瓦造の四角の鐘塔を持ち、鐘塔の上部には四角錐の屋根を架してその頂部に十字架を挙げている。鐘塔の下部は三方吹放ちの玄関部の一部をなし、玄関部は鐘塔の幅で会堂本体に半間入り込んでいる。なお増築玄関上部と本体一間上部を利用して楽廊を設けているが、これは後補のものと思われる。会堂人口は玄関部正面に両内開き扉、左右に片内開き扉を配し、会堂の側面左右脇出入口にはそれぞれ両内開き扉があり、切妻屋根を架した吹放ち人口を前置している。
会堂正面の左右及び会堂左右側面の柱間毎に上部尖頭アーチ形縦長窓を持ち、会堂部の窓は上下聞閉式となっているが、脇祭壇前に存する一対の窓は両内間きとなっており、更に外側に両外開き鎧戸を付し窓形式を異にしている。何等かの意図をもって古い窓形式が祭壇近くにのみ残されたものであろう。
建物の内部平面は三廊式、主廊部及び側廊部各正面には多角形平面の主祭壇及び脇祭壇を設け、両脇祭壇前の左右から祭壇後方にかけて香部屋を設けている。天井は主廊部、側廊部共に竹小舞の漆喰仕上げ 4 分割リブ・ヴォールト天井で、全てのアーチは尖頭形を基調としている。祭壇部天井もヴォールト状の立ち上げがなされ、主祭壇後部左右上方には一対の上部尖塔アーチ形縦長窓があり祭壇に彩りを添えている。
当教会堂建物のの主廊幅(N)は 12.6 尺、側廊幅(I)は 6.3 尺、列柱間隔は 8 尺( ★ 3) で、N/I= 2.0 となる。この数値は明治中期以降建設される木造教会堂の標準的な数値として多く採用されているものである。
内部列柱は角柱で台座はなく、植物の葉状の簡単な装飾を施した柱頭を有する。この柱頭は 4 年後に完成する鉄川与助の設計施工による冷水教会堂のそれと酷似している。内部立面構成はいわゆる第?群で、内部列柱は第二柱頭を有せず、アーケード ( 第一アーチ ) 、壁付リブ ( 第ニアーチ ) 、横断リブ、交差リブが全て一つの柱頭から立ち上がる形式を採っている。
なお戦後の鐘塔増設について昭和 21 年 8 月鉄川工務店による説 (★ 4) と、現地案内板「鯛之浦カトリック教会のあゆみ」に記された昭和 24 年 3 月野中組による説とがある。現地案内板によれば、この鐘塔の煉瓦には原爆により破壊された旧浦上天主堂の煉瓦が使用されている旨記されている。また旧聖堂本体の施工者について付言すれば、長崎県教育委員会が昭和 51 年度に行った悉皆調査(★ 5 )当時に信徒の言葉として、 73 年前に「野中組が請負った」と聴取した記録があることを付記しておきたい。
( ★ 1) カトリック長崎大司教区司牧企画室「長崎の教会」(聖母の騎士社、 1989 年 3 月) ( ★ 2) 川上秀人他「鉄川与助の教会堂建築について」(九州大学工学集報大 60 巻大 2 号、昭和 62 年 3 月)
( ★ 3) 長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第 29 集、昭和 52 年 3 月)付図より推定。 ( ★ 4) 畔柳武司「大工鉄川与助について」(建築学会東海支部研究報告、昭和 53 年 2 月)
( ★ 5) 上掲(★ 3 )「長崎県のカトリック教会」
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