生月島は平戸島の北西に隣接する島で、平戸島とは僅か700m程の辰ノ瀬戸を隔てて相対する、南北10km余、東西2km余の細長い島である。1島1町で全島人口は約9千人、平成3年7月に生月大橋が完成し平戸島と道路で結ばれることになったが、それまでは平戸島の薄香港発着のフェリーが往復していた。
豊臣・徳川と続く禁教政策を忠実に守る平戸藩のキリシタン制圧は徹底していた。平戸島北西海岸から生月島一帯にかけては多くの殉教の歴史を持ち、その幾つかは史跡、或いは霊場として今も語り伝えられている。また、ここは潜伏キリシタンの「生月・平戸系(★1)」の本拠とも言うべき所であり、昔日の潜伏の形も徹底していた。長期にわたる孤立無援とも言うべき潜伏状況の中で、当地区の潜伏キリシタン達は、大浦天主堂に於ける信徒発見後も容易に心を開かない状態が続いた。
明治の初期には生月の全住民の殆どが潜伏キリシタンであったと思われ、浦上の信徒が信仰を表明して「旅」に出ている明治5〜6年頃、黒島の信徒が何とか生月の人達を復帰させようと島に来て働きかけるが、潜伏キリシタンの意志は堅く、容易に復帰には応じなかった。
現在の生月島は港を中心に漁業基地として活気にあふれているが、現在でも300戸余りがいわゆる隠れキリシタンとして信仰を維持していると言われ(★2)、一方、カトリック信徒の数は全島民の3%程度と比較的少ない状況にある。
明治11年に平戸島に来て宣教を始めたペルー神父(1848〜1918)が山田の人達に働きかけ、それに応じた人が長崎へ出かけてカトリックの勉強を始めたのが山田キリシタンの祖と言われている。山田教会の受洗記録によれば明治13年(1880)に55人の改宗が記載されているとのことから、その頃には既に家御堂の類は存在していたと思われる。
現在の山田教会堂は館浦港から町を通り抜けた小高い丘陵上の住宅地に建てられている。その会堂は明治44年(1911)に着工、大正元年に漸く完成し、翌大正2年(1913)2月3日に献堂された。建設の準備にかかったのは明治42年頃で、当時紐差に居て平戸、北松、黒崎地区を担当していたマタラ神父(1856〜1921)の努力が大きかった(★4)。
山田教会堂建物の設計・施工は鉄川与助であるが、この教会堂は当初建設時から約60年間、本体が煉瓦造で正面が木造と言う通常とは逆の珍しい建物であった。
昭和45年(1970)12月改造前の会堂前面は木造切妻、下見板張で、中央に玄関が張り出して設けられ、玄関上部にはバラ窓と天主堂の文字が入り、正面外観は比較的簡素なものの、会堂内は現状に見られる本格的なものであった。
現在の山田教会堂建物は単層屋根構成の比較的小規模な煉瓦造建物で、屋根は瓦葺き、正面の方形の塔は鉄筋コンクリートによる増築時に付加されたものである。増築は会堂部を前方へ1間拡張する形で行われ、その上部は楽廊としている。なお、会堂部分は煉瓦造であるが煉瓦色を表に出すことはなく、壁体を白い漆喰で塗り、会堂全体として白亜の教会堂として仕上がっている。
会堂部左右側面は上部半円アーチ形縦長窓が増築前部分に4面配置されており、もともと左右脇出入口を持たない小規模なものであった。しかし会堂平面は三廊式で、主廊部、側廊部各正面には多角形平面の主祭壇及び左右脇祭壇を有する本格的なものである。主廊幅(N)は12尺、側廊幅(I)は6.7尺、列柱間隔は9尺で(★5)、N/I=1.8となる。
天井は全て円形アーチを基調とした板張り4分割リブ・ヴォールト天井、列柱は八角形の台座と彫刻を施された柱頭を有する角柱で、半円形の付け柱が4面に付き、そのうちの主廊側の1本は第一柱頭を突っ切って上方の第二柱頭へ達する。壁付リブの頂点も充分に高く、円形アーチのそれと相まって堂内はゆったりした雰囲気に包まれているが、単層屋根でこれを実現する為に側軒の高さが際だっている。
内部立面構成はいわゆる第V群で、主廊部壁面には円形アーチによるア一ケード(第一アーチ)の上に装飾帯を設け、その一端に横架材を架して第二柱頭を結んでいる。充分な大きさを持つ第二アーチ壁面には円形窓風に仕上げたブラインド窓の中に十字を結ぶ文様が画かれている。
当教会堂建物に於いて、鉄川与助としては初めて円形アーチ(窓)を採用したが、以後大正・昭和期を通じて多様化の時代を迎えるまで、構造の如何を問わず一貫して円形アーチ(窓)を採用し続けることとなる。
停滞を好まず、一作毎に創意工夫を重ねてきた「棟梁建築家(★6)・鉄川与助」が、何故に当教会堂の前面を当初木造で仕上げることになったのか、これについて記したものが見当たらず謎に包まれたままである。改造前の山田教会堂の正面は残された写真で見る限り暫定といったものは微塵も見られず、木造教会堂の前面として端正に仕上がっている。しかし煉瓦壁体をその為に塗りつぶしたとしても、構造の違いによる違和感は拭いきれない。
鉄川与助が当教会堂を着工した明治44年は今村教会堂を着工した年でもあった。双塔を持つ教会堂はこの今村一棟にとどめ、これ以後、前面中央部に八角形のドームを頂く突出した鐘塔を設ける鉄川独特の前面形式を定着させていくことになるが、その発想は鉄川には既に芽生えていたはずである。憶測の域を出ないが、鉄川与助がこの教会堂への思いをそのまま実現していたとしたら、この白亜の教会堂はまた違った姿を私達の前に現していたかもしれない。
当教会堂に司祭が定住するようになったのは戦後からである。私が当地を訪れたときはクリスマス前の飾り付けがなされ、堂内は華やかな雰囲気につつまれていた。そんな中にあっても、かってこの地にあった厳しい出来事を忘れない為のものであろうか。祭壇左右後方にかかる四枚の金色のレリーフは、鳥山邦夫神父の兄にあたる鳥山健治さんの作品「殉教図」と聞いた。
(★1)片岡弥吉「長崎のキリシタン」(聖母の騎士社、1989年12月)
(★2)H・チースリク監修、太田淑子編「日本史小百科<キリシタン>」(東京堂出版、平成11年9月)宮崎賢太郎氏稿より。
(★3)カトリック長崎大司教区司牧企画室「長崎の教会」(聖母の騎士社、1989年3月)
(★4)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年7月)
(★5)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)添付図より推定
(★6)川上秀人他「鉄川与助の教会堂建築について」(九州大学工学集報60巻第2号、昭和62年3月)
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