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呼子では明治42年(1909)に平戸からキリシタンの4家族が移住してきて、彼等は明治44年には小川島から住宅を買い取り仮の御堂としていた。当時馬渡島の常任司祭をつとめていたヨゼフ・ブルトン神父(1875〜1957)は呼子の殿ノ浦と松島をも司牧の対象としていた。
その後、昭和2年(1927)8月に紐差教会堂を建て替えるにあたり、紐差の旧聖堂を馬渡島に移築し、馬渡島の旧聖堂を呼子に移築する計画がまとまり、その計画に沿ってそれぞれの解体・運搬・移築及び新築が同時に行われ、昭和4年末頃迄には紐差、馬渡島、呼子各教会堂の整備は完了した。この時の馬渡島の主任司祭は再度の任務についていたヨゼフ・ブルトン神父であり、神父はこの大事業の実施に力を尽くされた。
馬渡島の旧聖堂解体移築に際しては呼子の信徒が総出で馬渡島まで行き、船で旧材を殿ノ浦海岸まで運び、村の若者達35〜40人がこれに参加したと言う。また馬渡島では紐差からの搬入と殿ノ浦への搬出が一緒になって大変だったとも言われている。呼子に運ばれた資材による教会堂の再建は鉄川与助の手によって行われ、チリー福岡司教は昭和4年(1929)5月21日まず呼子の聖堂を、翌日22日に馬渡島の聖堂をそれぞれ祝別している(★1)。
以上のことから後補の部分は別として、当教会堂建物の建築年代は馬渡島に於ける建築年代ということになるが、馬渡島では明治14年(1881)にペルー神父が聖堂建設に着手し、同年11月5日完成してプチジャン司教の祝別を受けたと言われている。このことをふまえて山口光臣氏は「この明治14年建設の聖堂が昭和w)・鎌ぢ年に呼子に移築され現在の呼子教会堂となっている」とされている(★2)。一方、川上秀人氏は「呼子教会堂の建築年代は建築的に見て明治15年〜20年頃の建設と推定」されている(★3)。この様に当教会堂建物の建築年代は研究者の間でも未だ明確な断定を下すに至っていない。
呼子教会堂の建物は木造下見板張り(壁両下部に縦板張り部分あり)、単層屋根構成、切妻屋根桟瓦葺きで、会堂正面に突出して玄関部を設ける。会堂部は現在5間であるが当初は3間であり、内外とも旧態を維持したまま2間の増築が行われたようである。入田静六氏が当教会堂を調査された昭和46年8月時点(★4)では会堂部は3間で、玄関部は主廊幅で突出し正面入口は吹放ちとなっていたが、その後、畔柳武司氏が昭和53年2月に発表されている「鉄川与助作品一覧(★5)」には呼子天主堂の平両構成は略図ながら5間で表示されており、また玄関部の突出幅が現在は主廊幅を超えて広くなり、正面入口には両引きガラス戸が付されている。このことから会堂長さを3間から5間にする増改築は、昭和46年から53年の比較的最近の改造であることが分かる。
側面の窓は各柱間毎に上部尖頭アーチ形縦長窓が並び、上部はフイックス、下部は両内開きガラス窓で両外開き鎧戸が付されている。玄関正面入口、各窓等開口部の外枠には隅石飾りを廻しており石造を模した造りがなされている。煉瓦造開口部にこの様な石造を模した造りがなされたものとしては例えば平戸島の宝亀天主堂(明治31年建築)正面があるが、木造では他に例を見ない。当教会堂では比較的目立つ部分であるだけに、いつの時期からこの様なデザイン化がなされたものか、その発現は注目に値する。
会堂内部平面は三廊式で、主廊部及び側廊部各正面には多角形平面の主祭壇及び脇祭壇を有するが、脇祭壇の造りは比較的簡素であり、原形は矩形平面であった可能性もある。主祭壇後部背面の比較的低い位置に4面の上部尖頭アーチ形縦長窓が中央祭壇を囲むように設けられ、その上部天井は板張りでヴォールト状に立ち上げている。なお通常内陣後部に設けられる香部屋は持たず、左側面に1窓をつぶす形で出入口を設け、1室増築されているがこれは後補のものである。
会堂天井は主w)廊部が板張り8分割リブ・ヴォールト天井でアーチは全て尖頭形、側廊部は板張り格天井で、格天井はそれぞれ格間の板張り方向を変えることで変化を持たせている。特徴的なのは列柱間を二連の尖頭アーチを用いたアーケードとしていることで、
二連アーチの接点下部に特異なペンダントを下げていることである。この手法は伊王島の旧大明寺天主堂(明治13年建築)に同様の手法が用いられており、初期天主堂の一つの類型とも言える手法である。
主廊幅(N)は12尺、側廊幅(I)は6尺、列柱間隔は12尺で、N/I=2.0となり、この数値は同時期に建設された教会堂建物のそれ(1.29〜1.67)に比べて大きく、当教会堂を除けば現在判明しているものでは明治28年建築の創建井持浦天主堂において初めて出現し、以後は煉瓦造、木造を問わず多く採用された数値である。特に創建井持浦天主堂をはじめとしてペルー神父が設計指導したと言われる教会堂は一貫してN/I=2.0となっていることは注目すべきことであろう。なお創建井持浦天主堂は1スパンに2単位のリブ・ヴォールト天井を設け、呼子教会堂が二連アーチの中央にペンダントを持つのに対して、創建井持浦天主堂ではその位置に主列柱より径の細い副列柱を持っていたことを付記しておきたい。
呼子教会堂の列柱は四角柱で台座・柱頭を有し、側廊側を除く3面に半円形の付柱を持つとともに、柱頭飾りには笹の葉をモチーフにした装飾が施されている。内部立面構成はいわゆる第U群で、列柱間に二連アーチを持つ特色のあるものである。
当教会堂建物は元々が小規模なものであるが非常に質が高く、大規模な増築があるにしてもよく原形を尊重する姿勢が貫かれており、建物自体やや整いすぎているきらいはあるものの、初期天主堂としての旧態を良くとどめている遺構と言えよう。
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(★1) 「福岡教区50年の歩み」(カトリック福岡教区、昭和53年5月)
(★2) 山口光臣「佐賀、熊本、福岡県における天主堂建築」(建築学会九州支部研究報告第25号、昭和55年2月)
(★3) 日本建築学会「総覧日本の建築第9巻/九州・沖縄」(新建築社、1988年2月)
(★4) 太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年5月)
(★5) 畔柳武司「大工鉄川与助について」(建築学会東海支部研究報告、昭和53年2月)
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